弘誓山観音寺
宗派・・・天台宗
本尊・・・観世音菩薩
所在地・・・植月東 [地図]
美作三十三ヵ所観音5番霊場
当山は当初、間山にあり、第3代天台座主慈覚大師円仁の創建。のちに田井に移転するも、天文13年(西暦1544年)の洪水により建物その他一切を流失する。寛文6年(西暦1666年)に現在地に移転新築した。
仁王門は町指定の文化財になっている。
[勝央町誌、悠々わがまち勝央再発見より]
弘慶山慈圓寺
宗派・・・天台宗
本尊・・・元三大師
所在地・・・植月東 [地図]
当山は植月北日吉神社の前に日吉山神宮寺として第3代天台座主の慈覚大師円仁が創建。のち貞享3年(西暦1686年)に津山城主の森長成が、悪疫の平癒のため元三大師を勧請し、加茂川をはさんで東西に祈願寺を設けた。東が当山、西が津山市西寺町の大圓寺である。正徳4年(西暦1714年)に現在地に移り、弘慶山慈圓寺と称す。本尊の元三大師は天台宗第18代天台座主であり、如意輪観音の生まれ変わりとされている。本尊が実在の人物であるのは珍しい。[勝央町誌、悠々わがまち勝央再発見より]
長尾山金光坊
宗派・・・天台宗
本尊・・・馬頭観世音菩薩
所在地・・・植月中 [地図]
当初は長尾山誠心院と称した。前観音寺住職であった泰禅上人によって中興。大正3年(西暦1914年)の火災により諸堂を失い、大正7年(西暦1918年)に現在地に移る。
当山には泰禅上人の偉業を偲ぶ十王石仏、六体地蔵等の石仏が多く残されている。
[勝央町誌、悠々わがまち勝央再発見より]
鳥羽山萬福寺
宗派・・・天台宗
所在地・・・植月北 [地図]
萬福寺は元亀元年(西暦1570年)に慈眼大師によって再興されたが、寛文のころより無住となり、観音寺の兼任となった。現在廃寺。[勝央町誌より]
日吉神社
祭神・・・大山咋命(おおやまくいのみこと)
所在地・・・植月北 [地図]
創建は天平10年(西暦738年)、大友兄麿が美作守として赴任の際、近江国坂本の日吉山王宮の分霊を植月中河内の後山に奉祀したと伝えられる。のち植月郷、広野郷の地頭職である植月公興が植月中に小山城を築き、当社を守護神とした。永正9年(西暦1512年)に小山城主植月彦五郎は当社を現在地に遷座した。[勝央町誌より]
十王像石仏
所在地・・・植月中 [地図]
長尾山金光坊の境内に十王像石仏がある。これは天明3年(西暦1783年)に泉州の石工松尾伊八によって完成したもので、泰禅上人の高徳を敬慕する近郷の篤志家の協力を得て作られました。
1番 泰広王(不動明王) 2番 初江王(釈迦如来)
3番 宋帝王(文殊菩薩) 4番 伍官王(普賢菩薩)
5番 閻魔大王(地蔵大菩薩)
6番 変成王(弥勒菩薩) 7番 太山王(薬師如来)
8番 平等王(観音菩薩) 9番 都市王(勢至菩薩)
10番 転輪王(阿弥陀如来)
[勝央町の文化財第2集より]
念佛塚銅鐸出土地
所在地・・・植月北 [地図]
津山市郷土博物館に「袈裟襷文銅鐸」が収蔵されている。これは美作地方で初めて発見された銅鐸であり、植月北の鳥羽野の畑地で発見されたものである。
[勝央町誌より]
弥平治遺跡
所在地・・・植月東
昭和57年、広域農道建設工事にともない発見され、県教育委員会により発掘調査された。これまで判明したのは弥生時代中期の住居址6軒である。出土品中、珍しいのは石器が多く、ほとんどが未完成であることから、この地で磨製石器の製造を行っていた公算が強い。
[勝央町誌より]
阿弥陀三尊
所在地・・・植月東[地図]
3体の石仏が一列に並んでいることから、阿弥陀三尊と呼ばれている。いずれも土を盛った塚の上に丁重に祀られている。阿弥陀三尊は、通常、中央に阿弥陀如来を置き、左に観世音菩薩、右に勢至菩薩が祀られているが、ここでは、3体とも座して定印を結ぶ形であり、区別なく置かれている。背には、「貞享五年二月十五日施主高月源入と刻まれており、1688年に高月源入の発願により造られたことがわかる。
宮山城跡
所在地・・・植月中[地図]
植月中字小山の丘陵高台に位置する。菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248年)植月、広野二郷の地頭職となった時に築城したとされる。13代城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座させ、本城も宮山城と改めた。遺構は本丸13間×13間、二の丸18間×18間を測り、井戸等も確認されている。
明神鳥居
所在地・・・植月中[地図]
植月中字神事場の日吉神社参道にある。規模は高さ310cm、最大幅286cmを測る。材質は花崗岩製である。柱に細字で「寛文戊申秋九月吉日 従四位 美作守源忠継建」(1668年森忠継)の銘がある。町内では最古の鳥居とされるが、貫下には「元禄十五□□月吉日□□」(1702年)と刻まれており、寛文年間ではなく、元禄15年の建立と推測される。